ゆとり社会人の読書ノート&エクセルVBA

素人が公法を中心に幅広く読書をします&エクセルVBA奮闘記です。

今野元『上杉愼吉』(ミネルヴァ書房、2023年)

私の好きな分野の1冊です。

私は、石川健治教授が清宮四郎や筧克彦を読み直す一連の論文*1*2が大好きで、その一環で、戦前憲法学の思想史的研究をつまみ食い*3してきました。

そんな中、昨年出版されて読むのを待ち遠しにしていたのが本書『上杉愼吉』です。

著者は、ドイツ思想史、特にウェーバーが専門の今野元教授です*4。出身は東大法学部ながら第三類(政治コース)出身のため、美濃部シューレの呪縛(圧力?)を回避しながら、今までとは違う角度の上杉像を描き出しています。

学説については、岸を後継者として誘うことに失敗し、美濃部との対決に活動家として応答してしまった点が大変残念です。本ブログでは、上杉・美濃部に関するエピソードを引用してお茶を濁したいと思います。

上杉に関するエピソード

彼(上杉)はこの試験(学年末試験)で首席になり、特待生となった。友人などの証言によると、上杉の好成績は入念な準備の賜物だった。彼は講義ノートに加えて、独自研究をまとめた帳面を用意していた。~上杉は、途方もなく早く答案を仕上げて退出し、友人を驚かせることもあった。上杉に嫉妬した第一高等学校の同期性が、彼の態度が気に食わないからとして、酒席で上杉を殴打するという事件も起きた。(15頁)

「大学を卒業したとき、ばかな男に会った。そこで、お前はばかだといったら、たいへん怒られた。それ以来、ほんとうのことをいわないようにしている」(15頁)

穂積八束は、上杉愼吉の答案に目を見張り、人を介して彼への接触を試みた。(17頁)

上杉が穂積の憲法講義を聴いて、そのノートの表紙に、「頭のいゝものには解らぬ憲法也」と書いたという噂もある。(18頁)

一九〇三(明治三六)年夏、上杉愼吉は卒業試験で政治学科第三席となり、学業の最後を首席で飾ることができなかった。雑誌「太陽」記事によれば、この年から東大法科は三年制から四年制になり、学年試験に加えて卒業試験が課されるようになったので、上杉はこれに抗議して終日酒を飲み、泥酔状態で試験場まで車で運ばれていったという(南木摩天樓「上杉博士と美濃部博士」、三九頁)。(25頁)

上杉愼吉は東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。第三席ではあったが、上杉は明治天皇から「恩賜の銀時計」を拝領することができた。(25頁)

上杉は八四四頁に及ぶこの著作(行政法原論 全)を、学部卒業のわずか一年後に刊行したのである。上杉の処女作の序文を引き受けた恩師穂積八束は、これまで散漫な羅列が多く暗黒の地を行くが如きだった日本行政法研究に「地圖」が現れた、と激賞した。その新聞広告は、穂積の推薦の辞を引用しつつ、「迂遠なる外國の學説の羅列不備なる我國の法令の城粹は以て我が行政法の荒野を開拓して世の切迫せる要求に應ずるものと爲すこと能はず」とし、上杉著の「論理の勇健」、「文字の流暢」を称えた(「東京朝日新聞」一九〇四年一一月一九日朝刊、八面)。(30頁)

美濃部に関するエピソード

「眉目秀麗」の上杉は、当時「女子大」の講師でもあったため、「目白臺の饒舌嬢をいやが上に騒がせた」という。「目白」にあったのは、「日本女子大學校」(のちの日本女子大学)である(林政武「綠地帶」、一八頁)。のちのことだが、美濃部達吉は学生時代の後輩上杉の恋愛話を披露して、自分が上杉に男性として嫉妬していたと告白している。「今でも奇麗な人を見ると、幸福だなーと思います。實際その頃上杉君が羨ましくて仕様がありませんでした。全くの所僕のこの變な面つきが歯がゆくて……」(「帝國大學新聞」一九二六年一二月六日、五面)。(69頁)

要するに美濃部は、何かの事情で(例えばドイツ語が不得手、非社交的、まだ自分の学説がないなど)、イェリネックに敢えて会いに行かなかったのか、帰国後の比較法制史講義の準備のために新刊のイェリネック「一般国家学」を読んで、遅まきながらその利用価値に気付いたものの、もはや会いに行く暇がなかったのか、そうした事情があったものと思われる。(90頁)

美濃部達吉は帰国した途端にハイデルベルク法学の輸入代理店のように振る舞い始めるが、彼がイェリネックと代理店契約を結んだ形跡はない。コブレンツの連邦文書館には、イェリネックから「一般国家学」の翻訳許可を取ろうとした副島義一(早稲田大学教授、東大法科で美濃部の先輩)、大山郁夫(早稲田大学教授)の書簡が残されている(BArchN1136/28/BArchN1242/18)。だが美濃部の書簡は一枚もない。美濃部は、イェリネックに無断でその著作を翻訳していたようである。カミラ・イェリネックは亡夫の回想で、夫の著作が世界中で翻訳されていることを紹介し、日本語に関しては「一般国家学』(一九〇六年版)が「刊行見込み」と記している。これは早大の企画を指していると思われるが、実は夫の生前に東大で次々と日本語訳されていたということを、カミラ夫人は知らなかったらしい(CamillaJellinek,GeorgJellinek,S.134)。(90~91頁)

その他

意外にも普選推進派だったり、婦人問題や社会主義にも一定の理解を示していたり、と上杉の新たな側面を垣間見ることができました。法学的には、イェリネックの影響を大きく受けており、人的交流も含めれば、美濃部よりも上杉の方が「嫡流」と言っていいのではないかと。また、一木喜徳郎や中田薫が上杉を高く評価していたことも意外でした。学生からの評判はあまり高くなかったようですが、往年の大天才上杉愼吉を知る人からは、その人望も相俟って慕われていたようです。