奥平傘寿記念論文集の石川論文を読みました。
大要
本来、美濃部のライバルとなるはずであった憲法学者、筧克彦についての論文です。
戦前の東京帝大の憲法学は、一木喜徳郎―美濃部達吉の天皇機関説の流れと、穂積八束―上杉慎吉の天皇主権説の流れがありましたが、筧克彦は一木の弟子にあたります。しかも、美濃部と筧は同期で、1、2年で政治学科のトップだった美濃部*1と、法律学科のトップだった筧の2人のうち、一木が後継者として目をかけていたのは筧の方でした。つまり、「もう1人の美濃部」になるはずの学者でした。
しかし、真面目すぎる性格がたたってか、晩年は、研究室に畳を敷き、神棚を祭り、講義では拍手を打つようになりました。その様子は、一部の熱狂的な「ファン」こそ生むものの、多くの帝大生からは嘲笑の的になりました。
そのような筧の学問を、留学先のドイツまでさかのぼって論じています。留学先のベルリン大学で筧が師事したのは、民法学者のギールケでした。また彼の畏友ディルタイの思想にも指導を受けます。さらには、フィヒテなども好意的に言及するようになりました。
日本に帰った筧は、ドイツで摂取した上記の思想をもとに、国家法人論の精緻化に取り組みます。美濃部がイェリネックをもとに国家法人説を論じたのとは対照的です。
感想
本論文の内容はかなり哲学的で、私には理解が及びませんでした。ただ、見捨てられてきた学説を正当に評価する営みのダイナミクスだけはしっかりと伝わってきました。今の東大憲法学は、美濃部達吉―宮沢俊義・清宮四郎―芦部信喜・樋口陽一の流れに集約されてしまいましたが、穂積―上杉(―岸)の流れや、尾高朝雄―小林直樹の流れがなくなってしまったことは残念です。
*1:高見勝利「講座担任者から見た憲法学説の諸相―日本憲法学史序説」北大法学論集52巻3号17、19頁(2001年)参照。